← 「 柳原義達の世界 」へ

田中三蔵

柳原義達によせて

掛井 五郎 ( 彫刻家 )

中島 修 ( 彫刻家 )

関口 雄三 ( 関口美術館 館主 )

「彫刻家・柳原義達さん 骨太の美刻んだ孤高の人」

やなぎはら・よしたつ 1111日死去(呼吸不全)94歳 1117日葬儀



 骨太の、強い彫刻だった。女性像をはじめ、「道標」と題するハトやカラスの像。どれも微妙なねじれの

中に動きを含み、自ら唱えていた「立つことの美しさ」を備えていた。


第2次大戦後の日本の具像彫刻界を、佐藤忠良氏や故・船越保武氏らとともに先導した1人だ。高橋幸

次・日本大学芸術学部教授(彫刻史専攻)は「ロダンをはじめとする近代フランス彫刻を正統的に継承し

、さらにヨーロッパの新潮流の批判を通じて、戦後の日本の彫刻界で自己の世界を展開された」と位置

づける。かつて勤めていた東京国立近代美術館で柳原さんの回顧展を手がけた。そんな体験を通じ

て、「おおらかでまっすぐな人。作品にも、華やぎみたいなものが漂っていた」と振り返る。弔辞では「孤

高の人」、「抵抗と自由の精神の人」と悼んだ。

 
身長1メートル78。若いころは陸上競技の選手だった。人をもてなし、ほめ、話を聞く人柄で、怒る顔を

ほとんど見せなかった。「師もなく弟子もなく」と、言っていたのに、葬儀には、長らく教えた日本大学の

教え子だけでなく、作風の全く違う現代美術家も参列するほど、多くの人に慕われた。


 彫刻一途の生活を支えたのは、67年間も連れ添った妻の操さん(92)。ファッション・イラストレーター

の草分け的存在で、売れっ子だった。「彫刻以外は何もできない人でした。彼が60歳で主任教授にな

った70年までは私が支え、その後は入れ替わりました」


90年半ばで彫刻制作はできなくなったが、01年ごろまでサインペンを使ってデッサンをした。緑内障の

ため、最後はほんの一点くらいしか見えない状態に。

しかし最晩年も、体の前で長い指を動かしていたという。頭のなかのイメージを造形しているように見え

たそうだ。孤高の人は、だれにも見えない「道標」を最後まで刻み続けていたのだろうか。





田中三蔵

「2004年12月6日 朝日新聞夕刊 『惜別』欄から